雑記

ここは,フリートークです

M1 生命と生命の起源に関する私見

 「生命とは何か?」このことについて万人が納得する定義を提出した人はいないだろう。少なくとも私は知らない。このテーマの一般的解法として,地球上に存在している生物の共通性から生命の特性を導くというやり方である。私は現役のとき生物の特徴として以下の8つにまとめたものを生徒に紹介していた。

1 外界と膜によって区分されている。(外界とは不連続)
2 機能とよく対応する形態(機能する形態)をもつ。
3 外界から物質やエネルギーを取り込み,生活に必要な物質やエネルギーに変換する。
4 外界の変化(刺激)に対して反応(応答)する。
5 自分と同じ構造をもつものを新しくつくることができる。(自己複製)
6 個体として存在し,個体内を調節するシステムを持つ。
7 他の個体や環境と相互に関係して存在している。
8 環境の変化に対応して,個体群や種として変化し適応してきた。(進化と適応)

 これらは,大部分は見聞きしてきたことからの借り物であると同時に,生命は細胞膜の中に存在しているという当時の思い込み(信念?)に根ざしていた気がする。従って,核酸を有するけれども細胞膜に囲まれる構造をもたないウイルスは生命体ではないと決論づけていた。勿論,この考えにはウイルスの研究者でなくとも多くの異論があるだろう。そして,私自身も大分考えが変わってきた。私は「細胞」という構造は神からの賜り物に近い奇跡の創造物と思っているが,「細胞」という構造の有無が生物と無生物を隔てる完全な仕切りとなるとは考えなくなった。それは,遺伝子や生命の起源を考える中での出来事である。

 私も「遺伝子の本体はDNAである。」と教えてきた。この説明に使用する例がおなじみのT偶数系ファージの増殖である。教え方のこつ?は,ファージのDNAが大腸菌の中に侵入した時のみ子ファージの形成が始まることに力点をおくこと。注意すべきは,DNAとともにタンパク質(酵素)も侵入することにはあまり触れないことである。DNAが単独では遺伝情報を発現できないことはここでのテーマではないからである。

 「遺伝子とは何か。」というのは,簡単そうで難しい問いである。遺伝とは,親から子へ形質が伝えられる現象であり,それを担う主体がDNAであることは間違いない。それに加え,DNAには様々な情報が書き込まれているのも事実である。そういう観点からはまさに「遺伝子の本体はDNAである。」であろう。しかし,遺伝子を単数で捉え,それを情報発現の単位と考えるとき,一つの遺伝情報の発現に必要な領域や要素を正確に示すことはまだ誰もできていない気がする。1つのタンパク質の合成に関してみても,アミノ酸配列をコードする領域以外にも重要な領域が他に存在する。また,情報の発現には,最初からタンパク質など複数の物質も関与している。遺伝形質発現の過程が更に解明されれば,新しい領域の重要性が発見されることも否定できない。これらのことを考慮すると,遺伝子を特定の領域の遺伝情報に限定するのはもはや無意味ではないかと思われる。そのため,曖昧な遺伝子という言葉は可能な限り使用しないようにして,使用する場合は,その定義を明確にできることのみにした方がよいと思う。例えば,インスリンのアミノ酸配列をコードするものをインスリン遺伝子と呼ぶことにするなど。教える時も,「遺伝子の本体はDNAである。」ではなく,「遺伝情報を担う物質は主にDNAである。」とした方がわかりやすいのではないか。これは,くしくもDNAを「生命の設計図」という従来の例えによく合致する。そして,設計図だけでは建物は完成しないことにも合致している。

 DNAを遺伝情報物質と捉えたとき,次の考えが芽生える。それは,「遺伝を単独の物質中心に捉えるのは無理がある。」のではないかということである。「RNAワールド」の仮説の中で問題になるのは,「どのようにしてDNAに比べて不安定なRNAの時代が続いたか。」という点ではなく,「遺伝を単独の物質中心に捉えるのは無理がある。」という点ではないか。
 遺伝を単独の物質を中心に捉えるのをやめ,システムとして捉えたらどうだろうか。親から子へ伝わるのは,「遺伝子」ではなく「遺伝システム」であるとする。T偶数系ファージの増殖でDNAとともにタンパク質が菌体内に侵入することも厄介視する必要はなくなる。即ち,「T偶数系ファージは,ファージの遺伝システムを菌体内に侵入し菌体の遺伝システムを借りて自己複製を行う。」と説明すればすむことである。

 次に,生命を生態系の中で考えてみよう。ウイルスは細胞という単位を持たないばかりか,単独で自己複製もできない。この2つの点が長い間,私がウイルスを生物から除外してきた主な理由である。生命が地球だけに存在するかどうかは別にして,生命の存在するあらゆる天体で,生物は生存可能な生態系の中に存在し,環境から独立して繁殖はできないはずである。生命を生態系の中で捉えると,ウイルスは立派に自己複製が行える存在である。私はこの考えに至ったとき,ウイルスを生物から除外するのを止めにした。むしろ,生物を「遺伝システム」で大別して,細胞をもつ生物を「自己複製自己完結型生物(一次生物)」,ウイルスを「自己複製非完結型生物(二次生物)」などと呼んではどうだろうか。(三次生物は存在できるかな?)生命とは,その存在する生態系の中で,結果として自己複製できる「遺伝システム」をもつものと定義できるのではないか。

 この「遺伝システム」を生命の起源に応用してみよう。生命の誕生とは物質的・エネルギー的な土台をもつ「遺伝システム」が完成したことを意味する。生命は宇宙のどこかで誕生し,現在の地球に存在している。「生命が地球のみに存在する。」という考えには,私は賛成できない。その確率は極めて低いと思う。地球の生命の起源に関しては,若いころは「生命は宇宙から飛来した。」という考えを熱烈に支持していた。しかし,近年は地球上で生命が誕生した可能性も否定できないなと思うようになっている。ともあれ,地球型の生命は水の中で誕生したことは間違いないだろう。生物を物質的に捉えると,外界から区別できる構造をもった混合物になる。地球型の生命の原型は,水の中で脂質の膜の中に包まれた混合物から出発したことは間違いないだろう。化学進化の過程を2段階に分け,第1段階を無機物から様々な有機物が合成される過程,第2段階を膜に囲まれた構造の中で「遺伝システム」が完成していく過程とする。第1段階は,生命に向かうものとそうでないものを含め無限に存在すると思われるのでここでは省略する。問題は第2段階である。どんなに膜構造の内側に生命活動に必要な物質を混ぜ合わせても,一連の化学反応系は再現できても自己複製に至ることはなかった。研究が発展途上にあることを鑑みても,特定の物質を混ぜるだけで生命が短時間で合成できるような魔法の薬は有りそうにも思えない。むしろ,生命誕生の過程には一連のプロセスがあったと考えるのが自然である。

 DNAは単独では生理機能を発揮しない。しかし,RNAは自己スプライシングを起こすものが発見され,RNAの情報をDNAに逆転写する酵素が発見されていく。更に,RNAをRNAに転写する酵素が発見される。これらの発見は,RNAとタンパク質が存在すれば初期の生命体の基礎が完成できそうなイメージを多くの人に与えた。そこで登場してくるのが「RNAワールド」の仮説である。高校の教科書でも,有力な仮説として紹介されている。東京書籍の教科書では,「この説は,現在の酵素のいくつかはヌクレオチドの分子に構造によく似た補酵素を利用するということからも支持される。」と結んでいる。(最初私も説得力のある説だと思った。しかし,現在はその可能性も否定できない程度の信頼しか置いていない。)

 現存の生物の「遺伝システム」の中心物質であるDNA・RNA・タンパク質の合成についてみてみよう。DNA合成には通常DNA・RNA・タンパク質の3つの物質が関係するが,逆転写酵素を使用すれば,RNAとタンパク質のみで可能になる。同様にRNA合成にも通常DNA・RNA・タンパク質の3つの物質が関係するが,RNA依存性RNAポリメラーゼを使えばRNAとタンパク質で可能になる。これらを共通項でくくれば,RNAとタンパク質となり,DNAは後から登場したようにも思われる。しかし,原始的な有機分子の複合体に置いて,DNAのみが存在していないで後から登場したとは考えにくいのではないか。むしろ,相補的な関係にあるDNAとRNAは,生命とは無関係のものを含む様々な組合せの複合体を形成していたのではないか。その物質的ななごりとして,現在の真核生物のDNA複製にプライマーとしてRNAが必要としているのではないか。また,代謝には多くのヌクレオチド由来の物質が関係していることも,核酸とタンパク質等の複合体から生命が誕生したことを暗示しているのではないか。

 ここで問題にしたいのが,「必然」と「偶然」である。化学反応においてどの分子とどの分子が反応するかは誰も予想がつかない偶然の現象であるが,混合物からどのような化学反応が起こるかは条件が決まればほとんど必然的に決まる。例えば,容器内に窒素と水素に触媒を加えて放置すれば,与えられた温度や圧力などの条件によって生成されるアンモニアの量は決定される。どの水素分子とどの窒素分子からアンモニアが生成されるかは予測できないが,条件が決まれば窒素・水素・アンモニア間にどのような平衡が生じるかは必然的に決まる。化学平衡のように,多くの偶然の要素を含みながら一定の結果になるものを,これを「確率的必然」とよぶことにしよう。
恒星の誕生を考えてみよう。宇宙空間に存在する物質は均等に分散しているのでなく,様々な空間に偏在している。恒星の材料が密に存在する空間では,現在も新しい恒星が生まれている。ここで注目したいのは恒星の材料がどこに密に存在するかを明確に予想することは極めて困難であると考えられるが,そのような場所は必然的に存在することである。しつこく言えば,恒星の誕生する空間は必然的に存在し,そのなかで恒星は一定の条件が整えば必然的に誕生することになるということである。恒星の誕生は宇宙空間では,「確率的必然 」と考えられる。

 原始生命の誕生において,膜の内外で展開される偶然の奇跡のみで「遺伝システム」を完成させたなどとは考えられない。そこには,多くの「確率的必然」が存在していなければ無理な話だ。宇宙の誕生から生命が生まれるまで多くの偶然が重なったことは否定しないが,それらの偶然の多くが「確率的必然」に導かれたからこそ,現在の生命が存在していると考えている。宇宙で生命の誕生の場があったことは疑いようのない真実であり,それゆえに生命が存在していると思う。
 私は,生命を「遺伝システムをもつ混合物」と捉えることができるのではないかと考えている。物質に三態があるように,混合物にも「生命」という状態が存在し,宇宙の誕生の過程で特定の場所で混合物の一部は「生命」状態に達し,一定の期間その状態を維持しつつ進化したのではないか。

 「あなたは,生命誕生以前の物質と宇宙の状態を再現できれば,生命は誕生してくると思いますか?」という問いにも「はい。」と答えるが,「では,人類は生命誕生以前の物質と宇宙の状態を再現できると思いますか?」という問いには「近未来では,ほとんど不可能な気がする。」と答える。私たちは,新しい星(恒星)が生まれている環境が宇宙の複数箇所に存在することを知っている。それらの恒星の周りにはやがて複数の惑星も誕生し,その中には生命誕生の条件を備えた星も複数存在しているはずである。その恒星系いくつかで「確率的必然」がうまく作用すれば,今も生命の誕生のプロセスが進行しているだろう。


意見の要約
1 遺伝現象を特定の物質を中心に捉えるのではなく「遺伝システム」として考える。
☞ 従来の「遺伝子」という言葉は遺伝情報の単位として定義して使用する。
☞ 「遺伝子の本体はDNAである。」ではなく,「遺伝情報を担う物質は主にDNAである。」と教える。
2 生命の誕生をDNAやRNAなどの特定の物質を中心に考えるのではなく,DNA・RNA・タンパク質とそれらを構成する構造物質などの複合体に起きた動的平衡の一連の変化過程として捉える。それらの変化過程には多くの「確率的必然」が存在する。
3 生命とは,存在している生態系の中で,結果的に自己複製ができる「遺伝システムをもつ混合物」の状態である。

(2019年4月1日,筑紫三郎)

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M2 ソラマメにアブラムシ集虫力はあるか?

 体細胞分裂の観察でよく使用したソラマメを,純粋な食用目的で庭の片隅に播種しました。播種のタンミングは種袋に従いました。早春には開花しはじめ多くの花をつけましたが,実がつきません。やや遅れて開花し始めたエンドウが実り始めたのとは対照的でした。「そうか,エンドウは自家受精できるが,ソラマメは多分他花受精ということだろうな。」と勝手に納得していました。友人に尋ねると,「今は温暖化が進んでいるので,マニュアルよりも1ヶ月位遅く播くといいよ。」とのことでした。改めてネットで検索してみると「ソラマメは自家受精で,結実しないのは,連作障害などの栽培方法の問題であるのでは」という趣旨の解説がありました。「え」と思い更に検索しますと,「ソラマメは自家受精する原始的な品種から他花受精の虫媒花へと分化した」という趣旨の説明がありました。自宅での観察結果は,後者の説明を現時点では支持しています。よく考えてみると,ソラマメを植えていたのはいつも体細胞分裂の観察で使用した後のこと,せいぜい早くとも4月の下旬のことでした。訪花昆虫の心配などしなくてもいい時期ですね。
 今回は収穫を夢見つつ待ちぼうけの日々でした。そこに現れたのがアリとアブラムシです。なかでもアブラムシの数は半端ではありません。よく見るとアブラムシが来ているのはソラマメと隣のスズメノエンドウだけのようです。他にマメ科ではエンドウとオオサヤエンドウも植えてあるのにそちらにはアブラムシは来ていません。例年だと,ウメの新芽に夥しい数のアブラムシが付くのですが,今年は無事でした。収穫はさっぱりでしたが,何だか少しお得な気がしました。「よし,来年もソラマメを植えるぞ。」と小さな決意をしたしだいです。果たして,ソラマメにアブラムシを誘引する力がありますかね。

(2019年5月7日,H,S)

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M3 ハナバチは減少しているだろうね

 庭には招かざる客も来ますね。それは,スズメバチやチャドクガといった動物系だけではなく,隣家から侵入してくる蔓植物や巧妙に侵入し発芽してくる植物のタネ。ネズミモチやイヌビワの若芽を引き抜かない年はありませんね。その原因の1つが我が家にもあります。大きくはないが,そんなに小さくもないネズミモチです。これが毎年春大量の花をつけます。ハナバチだけでなく,アシナガバチもやって来てやや危険もあります。そこで昨年思いついたのが「先手で剪定する作戦」です。ネズミモチだけは,花芽がついた頃に剪定し,開花前に花芽をすべて切り落とします。そうすると,花も咲きませんし実もつきません。「いい作戦だ。」と自画自賛していましたが,今年は花が済んでから剪定することにしました。
 庭いじりをして痛感するのが「ハナバチの減少」です。これは直感ですが,大きくは間違っていないでしょう。ネットで検索するとミツバチに関する記事が多く出ていましたが,ミツバチに限ったことではないでしょう。私の子供の頃は,春の庭には煩わしいぐらいのハナバチの羽音が響いていました。ハナバチ類の減少の原因を特定の農薬だけを悪者にしてこの問題に取り組んでも,解決できるかどうかは微妙だと思っています。やはり生態系全体で考えるべきでしょう。個人の庭はエゴな空間です。合法であれば・・・などとは考えないようにしたいものです。私も今年はネズミモチに少しだけ譲って,開花まではオッケイにしました。
 ネズミモチの花にやってくる昆虫を観察していると,確かに10種類以上はいそうです。お腹に花粉をため込むハキリバチの仲間(ヒメツツハキリバチ?)のしぐさはかわいいですね。そんな折り,黒っぽいミツバチがやってきました。ネットで調べてみると,だいたいニホンミツバチの形態と一致しています。セイヨウミツバチにも黒色が強いものもありますから,数個体の形態だけで決定するのは英断です。一応写真でも撮ろうかと待っていると今度は来てくれません。飛んでいるのはセイヨウミツバチのみ。ネズミモチの花を咲かせると,後始末が大変ですが,楽しみもありますね。ハナバチたちの繁殖にもささやかな貢献になっていることでしょう。

(2019年5月20日,H,S)


M4 プチボランティア,ニッチなボランティア,そして,労働生産性と無形資産

 日本企業では労働生産性の向上が盛んに叫ばれている。「日本企業は欧米の企業に比べて労働生産性が低いので,もっと労働生産性を高める必要がある。」と言われている。未だに全くわからないのが「労働生産性」という言葉である。ネットで検索すると「労働によって作りだされた価値(お金に換算する)をその労働時間で割った値」というような説明がなされている。平たく言うと,お金に換算した価値を従事した時間で割った値ということになる。学校という職場で働いていた頃,休日に生徒引率がよくあった。概ね8時間の業務で,当時は5百円の手当てがついていた。この休日生徒引率業務を労働生産性の考え方で計算してみると,私の休日引率業務は1時間あたり百円にも満たないことになる。この計算で正しいのだろうか?また,労働によって精算された価値がはたして全てお金に換算できるのだろうか?労働生産性で全ての労働の価値がはかれるのだろうか?・・・私は「労働生産性」という概念を以前から疑問に思っている。
 吉田松陰の松下村塾での「労働生産性」を例に考えてみよう。松下村塾は私塾であるので,企業とは言わないまでも,当時経営が成り立っていた組織と考えられる。吉田松陰が塾頭の間に,松下村塾はどれだけのお金を塾生から集めたのだろうか。これは一定の範囲で推測ができるだろう。その総額から必要経費を引き,それを現在の貨幣価値に直して,彼が塾生を指導した時間の合計で割れば,松下村塾の当時の労働生産性が計算できることになる。こんな計算を紹介すると,「何を言っているか。吉田松陰先生が松下村塾でつくり出された価値は,塾生から集めたお金の総額だけじゃないだろうが。」と大目玉をくらうだろう。

 日本では,いい意味でも悪い意味でも,外圧や一般論から世論を誘導している嫌いがある。この頃経済系のニュースで語られるのが「日本企業の成長力が欧米に対して低いのは,企業の無形資産が少ないからです。」というのがある。そこで,無形資産について調べてみると,ウィキペディアでは次のような説明であった。

 無形資産(むけいしさん)とは物的な実態の存在しない資産。例えば特許や商標権や著作権などといった知的資産,従業員の持つ技術や能力などの人的資産,企業文化や経営管理プロセスなどといったインフラストラクチャ資産が無形資産とされる。これは実体を伴わない資産であることから,会計制度上では原則として資産として計上することはできなくなっている。反対に現金,証券,商品,不動産など実態の存在する資産のことは有形資産という

 専門家に大きな声で説明されると,何となく直ぐに納得してしまいそうになるが,本当に日本企業には無形資産が少ないのだろうか。確かに,何でもかんでも,特許にしたり,流行しそうな言葉を先に商標登録したり,ディズニーのように長期間の著作権を主張したりする文化はあまり発達してこなかったことは事実である。しかし,従業員の持つ技術や能力などの人的資産,いい意味での企業文化は少なくない気がする。悪い意味での企業文化や風土も少なからずありそうなので,総合的に専門家が評価すると,「日本企業には無形資産が少ない」という主張も正しいのかもしれない。この主張を検証するのが話題の中心ではないと思うので,これ以上の議論は止める。この主張で重要だと思うのは,直ぐにお金にはならない無形なものの価値を評価している所だと思う。吉田松陰が松下村塾でした教育の価値は,けして彼が塾生から集めたお金だけで評価するのではなく,彼が育んだ無形資産を考慮するのは当然だと思う。あえて,それをお金に換算する必要はないと思うが。

 ボランティアについて語るときもこの無形資産という言葉がキーワードになる気がする。私が若いころ「日本にはボランティアが根付かない。」という主張が声高になされていた。これに,強く反論する主張もみかけた。このような主張や反論のなかで育った私は,単純に「ボランティアって何だろう。」という素朴な疑問をもっていた。ウィキペディアでは次のような説明がある。

 ボランティア(英: volunteer)とは,自らの意志により(公共性の高い活動へ)参加する人のこと,またはその活動のこと。特に日本語としてのボランティアは一般的に,社会への奉仕(チャリティ)に際して用いられることもあるが,奉仕活動は何らかの権威に「奉り仕える」活動であり,また戦前の勤労奉仕のように強制性を伴う活動も含まれる点で,自発的でない活動は含めないボランティア活動とは異なる点は注意を要する。ただし,自発的に他者へのサービス提供を行う場合も多く,両者が重なる部分もある。なお文部省の定めるボランティア活動の基本理念は,公共性,自発性,先駆性である。

 この説明を聞くと,あの「日本にはボランティアが根付かない。」という主張と根っこは同じような気がしてならない。若いころ聞いたこの話への反論が日常の奉仕活動の例であった。しかし,この反論の反論が,どうもボランティアと奉仕活動は全く違うものであるという主張で,奉仕活動は何らかの権威に「奉り仕える」活動であり,ボランティアとは異なるという主張だった。戦前の学徒動員などは,当時は奉仕活動と言っていたかもしれない。これを,ボランティアと主張する人はいないだろう。現在も,我が地区では地域の奉仕活動が残っている。「○月○日は地域の大掃除です。」という回覧板が回ってくる。もちろん,○月○日には,清掃活動など私のブロックでは誰もしていない。他のブロックでは一斉清掃をする所もあるらしい。私のブロックでは,○月○日までに家の前の道路の草取りなどを済ませるというのが不文律である。
 校区では,年2回公園周辺の清掃活動というのが実施されている。清掃活動とは名ばかりでメインの作業は川の法面に伸びすぎている木や草の除去作業である。刈り取った草や木,集められたゴミは後で市が回収にくる段取りになっている。公共の場であるので,予算を組んで人を雇えばすむことである。この清掃活動を市の予算削減のための奉仕活動と思って参加している人はいないだろう。
 高校生の間では,「強制ボランティア」という言葉が意味をもって使用されている。本来自主的な活動のはずのボランティアという言葉に強制という接頭語が付く。祭りなどのイベントが開催される時に,イベントの参加やそのイベントに対するボランティア派遣の要請がよく学校にくる。これらの要請は,自由意志で参加を募集できるものもあるが,ほとんどボランティアの派遣を断れない要請も少なくはない。「強制ボランティア」という言葉が使用される背景はよく理解ができる。趣味の写真撮影で見かけた光景に,大きな声で怒鳴られている高校生の姿があった。「こら!!,ボランティア!!,さっさと観客の整理をせんか!!。」その近くには汗だくで会場の整理をしている友人(当時市職員)の姿もあった。この大声で高校生に指示を出していた人も祭りに動員された方だろう。この大変な重労働のはずの夏祭のボランティアも,戻ってきた生徒に感想を尋ねると,案外プラス評価が多いのは運営スタッフの大変さを理解できているからだろうと思う。
 現在行われているボランティア活動の多くはやりたい人がやるという本来のボランティア精神に根ざしたものだけでは成り立っていないのが現実ではないだろうか。戦後,欧米的なボランティア活動を日本に根付かせようとした人たちは,やたら奉仕活動とボランティア活動を区別しようと無理をしていたのではないか。農耕文化は集落の共同作業によって成り立っていたはずである。その文化の流れを組む私たちは,互いに協力するという文化をもっていると思う。そこに欧米的なボランティア活動を植えつけるために多少従来のものとの差を強調する時代には,概念的な意味づけが重要であったと思われるが,もう言葉にこだわるのはいいのではないか。
 このごろ,「プチボランティア」と言う言葉を耳にする。言葉の響きが柔らかいので,私も共感をもてる感じがある。ネットで調べると,ボランティアガイドの筑波 君枝さんの以下の説明があった。

誰でも簡単にできる人や社会にやさしい行動の総称
 プチボランティアとは,実はガイドの造語で,確固たる定義のある活動ではありません。ガイドは,“誰でも簡単にできる人や社会にやさしい行動”と定義しています。ボランティアに関心がありつつも,どこかの団体に属して活動をすることが「ちょっとハードルが高い」と考えている人への最初の一歩としてできる行動として,プチボランティアを提案しています。

 「プチボランティア」という言葉と昔行われていた「小さな親切運動」の本来の精神には相通じるものがあると思う。被災地での支援活動のボランティアは,時間と体力が必要である。また,就職のために参加するボランティア活動には些か動機が不純なものを感じる。この誰にもできる人や社会にやさしい行動と説明されている「プチボランティア」は,農耕文化の育んできた協力の精神と融合できるかもしれない。
 わが町には昔ながらのお地蔵様が点在している。それもどうみても私有地の一部に食い込んだような場所にある。歩いているとお世話をされているご老人に会うこともある。このご老人の行動を,何らかの権威に「奉り仕える」活動であるとか,宗教的な動機付けによるものであるとか思う人はいないだろう。これは,地域文化で,欧米的な視点で表現すると「プチボランティア」ということになるかもしれない。
 幼少の頃は,友人の家でよく食事をご馳走になった。当時の我が家は貧乏でも今日の米にこまる程ではなかった。飢えてまではいなかったが,十分なおかずにありついていた訳ではなかった。友人のおばあちゃんは,家の事情をよく理解して,他人の子の私にささやかなご馳走をよくしてくれていた。昭和三〇年代の話である。これ,プチボランティア?
 次も私の小さいころの話である。私は悪ガキではなかったが,不注意でものを壊すことは少なからずあった。ある日のこと,近所の家で,大切なものを不注意で壊してしまったことがあった。何を壊したのかは思い出せないが,ちょっとした騒ぎになったことは覚えている。両親は直ぐにお詫びに行き,破損したものの弁償を申し出たが,全く相手にされなかった。そこで,近所のお世話役に仲裁をお願いにいった。近所のお世話役の方が被害者に酒の席で本音を聞き出してくれた。「俺もお金は欲しいよ。しかし,あっこ(我が家)は貧乏やけんお金はだせんだろうが。」と言われたそうだ。そこで,当時の我が家としては多少の見栄もあってかなり無理をしてお金を用意したとの話であった。これも,昭和三〇年代の話である。これ,プチボランティア?
 ここで,ニッチなボランティアという言葉を提案する。「ニッチ」という言葉は本来の言語(英語)の意味は「最適の地位」という意味で,商業では「隙間」という意味で使用されているようだ。生物学では「生態的地位」として用いられている。ここでは,生態的地位に近い意味で用いる。我々は様々な集団の中に存在している。その所属している集団の中に,直接的な利害とは無関係な役割を果たしている場合は普通にある。そこで,「所属している集団での固有の役割」をニッチと呼ぶことにする。ニッチなボランティアプとは,プチボランティアと言われるものに酷似するが,その所属のニッチで起こるボランティア的な現象を意味している。先に紹介した「近所のお世話役の方」や「友人のおばあちゃん」の話はニッチなボランティアの例だと思う。誰にでもできることでもないが,本人は日頃から普通にやっているニッチでの行為である。ボランティアと呼ぶより昔ながらの義理人情のかおりがする。
 ここで例に挙げたプチボランティアやニッチなボランティアは,敢えて「ボランティア」という言葉で表現しただけで,昔から地域社会に普通に存在した行為である。その多くは「奉仕活動」という言葉で表現されてもいなかったのではないか。「奉仕活動」は・・・,「ボランティア」は・・・などと決めつけず,農耕文化のもつ昔ながらの協調性を,無形資産として育んでいけばいいのではないか。

 企業が生き残りをかけて「無形資産」に注目していることは素晴らしいことだと思う。「温故知新」という孔子の言葉がある。企業にとって「知新」とは,イノベーションということになるだろう。私たちにとって「温故」とは何だろうか。その答えの1つが「無形資産」を温めることではないだろうか。

(2021年4月1日,筑紫三郎)



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